アラフォー主婦、フリーランスに転向し旦那を屈服させる下克上夢物語

4人の子育てをしながらフリーランスに転向するまでの挑戦記

MENU

プロフィール

プロフィール「Welcome Board!」

Photo by Reiseuhu on Unsplash

みなさま初めまして。

42才の主婦、しなのです。

我がブログへお越しくださりありがとうございます!

 

本ブログについて

子育てをしながらフルタイムの正社員として働いていましたが、長年勤めた会社を2016年に退職したことをきっかけに、フリーランサーとして生活していきたいと考えました。

「我が子と触れ合う時間を増やしながら、限られた時間で少しでも収入を稼ぐことはできないかなぁ。ましてや、場所を選ばずできる仕事なら尚更のこと有り難い。」

 

この想いを胸に、フリーランサーとしての生活をスタートし、自分のトライしたこと、失敗も成功も書き綴っていくことにしました。

 

そして、これが少しでも同じ想いを持っている人の背中を押せたらそんな嬉しいことはありません。

 

主に、お仕事の話、子育ての話、夫の話、そして大人になってからまたハマり始めた漫画の話、そのほかの日常について書いています。

 

さぁ色々やってみよう!でも不安・・・できるかな?

 

簡単な自己紹介から・・・

名前:しなの

年齢:42才(2021年現在)

職業:フリーランス(自営)と言いたいのですが、現在は週2である会社に通勤しており、残りの平日で別の会社のお仕事を自宅で手伝っているパートタイマー

家族構成:同級生の旦那サンと、小学5年生長男、3年生長女、1年生次女、2才次男の6人暮らし

好きなこと:読書(最近は主に漫画を貪り読んでます)、走ること(一度無職になってから始めました)、歌うこと(毎日家で子供たちと歌っています)

性格:物怖じしないと思われていますが、実のところビビりです

 

さらに詳細は、以下をご参照くださいませ♪

 

私のHistory

とにかく泣くし、びびりだし、いわゆる「ヘタレ」の幼少期

自分ではあまり小さい頃の記憶がはっきりしませんが、

家族が話す私の代表的な思い出話といえば、

とにかく保育園が嫌で朝は泣き…

歯医者が怖くて、

歯医者では隙を見つけて外に飛び出し、

逃げながら泣き…

ディズニーランドでは、

一番人気のッキーマウスが

近寄ってきては泣き…

遠足で行った動物園では

ゾウを見ては泣き…

ふれあい広場には1人入れず…

という、まさにヘタレな思い出話ばかりです(苦笑)

 

ヘタレから優等生への転身を遂げた小学生時代

こんなヘタレな私なので、

小学校入学後も、

授業中に積極的に手を挙げるでもなかったし、

一年生の遠足で行った動物園では、

ようやくふれあい広場に足を踏み入れたものの、

触れられたのはひよこまで

ハムスターもウサギも触れず…

 

しかし!!

あれは忘れもしない1年生ももう終わる

3学期にあったマラソン大会。

練習中ずっと2位だった私は、

本番当日、いつものように

1番の子の背中を見ながら走り続けていたのですが、

ほんとに最後のコーナーで、

「あれ?これは抜けるかも?」

とふと魔が差したように、

すっと抜いてしまったのです。

そしてそのままゴール!!

 

たぶん、これが人生初めての1番でした。

初めて、学校の壇上にあがり、

これまた初めてメダルをもらいました。

 

単純ですが、

この成功体験がよほど効きまして

それからの私、

本当に変わりました。

 

ここからは

マラソン大会は毎年1番当たり前、

運動会では毎年必ずリレー選手、

(ヘタレだった1年生除き(笑)、

なぜか勉強も自信がついたのか、

3年生になって

初めての5段階評価の通知表では、

図工以外全て5

(器用さだけはどうにもならない(笑)

 

まさに、学級委員タイプに変身を遂げたのでした。

実際に、毎年ほんとに学級委員やってました。

 

どんだけ変わるのよって感じですね(笑)

 

多分成長が人より少し早かっただけだと思うけど、

まさになんでもできた黄金時代!

この錯覚により4年生くらいには、

自信たっぷりな女子に成長してしまいました。

世界は狭かっただけだったというのに…

 

しかし他の人たちも成長が追いつき、

実力をメキメキ発揮し始める高学年あたりから、

いつまでも何でもできる優等生では

いられなくなってくるのです。

 

しかも、「優等生」が

誇れる時代は過ぎていき、

むしろ「ダサい」に変わっていく

中学生時代にこの後突入するのです…

 

その上!!優等生でありすぎたため、

素直になれなくなってしまっていた私は

すでに時遅し…

女の子には必要不可欠の素直さが乏しく…

これは後々、私が生きづらくなる原因にもなりました。

 

加えて!!変なプライドから、

可愛くなろうという頑張りもできず、

この服可愛いから買いたい、

などもなかなか言えず、

ひらひらのスカートとか履けなかった小学生時代…

 

 「素直が一番!」

と今はしみじみ感じますが、

どうにも素直になれなかった小学生高学年でした。

 

この感じを引きずって

中学生になってしまったもんで、

中学生時代、なかなか辛かったです…

  

不真面目になろうと頑張ってもせいぜい禁止されていた自転車通学しかできなかったチキンな中学生時代

 私の住む町は当時、

「人口増加率全国一位」

というニュータウンだったので、

新しい学校がどんどん建ちました。

 

小学校も中学校もとにかく新しい!

というのが売りだったけど、

代わりに新しい学校てのは、

色々なものが不完全…

 

中学校に至っては、

「校則」がなかったのです。

 

たぶん間に合わなかったのでしょうね。

で、

「いっそ売りにしちゃおうか」ってな感じで、

「校則のない中学校」として

大人たちはアピールしてました。

 

とにかく校則ないことをいいことに、

皆好き放題やるもんだから、

学校は荒れてまして

裏の校則てやつが先にできちゃったんですね。

 

これは優等生にはツライものです。

こういった学校では優等生てのは馬鹿にされる存在。

ここで切り替えなければ、

と優等生脱却を図りました。

 

しかし、根が真面目なんでね…

なかなか上手くできないわけです。

 

下手に目立てば、

先輩から呼び出され

 

入学当初、ちょっとつっぱってみたら

すぐに呼び出されて超怖かったです。

 

しかし優等生のままだと

同級生から引かれるし

 

どう振る舞ったらいいのかわからず、

「じゃスポーツだ!」

とバレー部に入ったはいいものの、

だいぶゆるかったバレー部のメンバーは、

学年の中でも派手な子ばかり

 

不遇の中学生時代の始まりです。

 

中学生といえば、

「誰が好きで誰が嫌い」の真っ只中。

好きな人がいなければ話に加われません。

バレー部の皆に問いただされ、

とりあえず当時のクラスメートの中でも

よく話していた男子2人の名を上げたら、

そこからもう恋バナ一色ですよ、周りは。

 

一方、私自身は、

素直になれなかったもので、

女の子らしく振る舞いたくても

恥ずかしくて振舞えないし、

思春期の暴食で体重は増えてくばかりだし、

可愛い服なんて着たこともない、

恋愛とはほど遠い

自分に自信のないデブに

様変わりしていったのです。

 

自分に自信もなけりゃ、

周りの恋愛話にも大してついていけない、

バレー部のキャプテンにもなったものの、

学年一のハデ子ちゃんたちをまとめることもできない

 

いつも母に、

「おばあちゃんの家に引っ越して学校を変えたい」

と訴えてました。

それぐらい学校が嫌いでした。

 

 

予想を裏切ったつまらない高校生活

いろいろな人がいた中学校とは真逆で、

同じくらいの学力の人が集まる高校は、

比較的穏やかで、いや穏やかすぎて、

あまりのギャップに

「なんだこの真面目さは⁉︎」

と最初は思いました。

 

そもそも、

「国際高校」と名のつく、

英語中心に学ぶ学校で、

英語が得意な人たちばかりが通う学校で、

授業も英語と聞いてたけど、

実際行ったらまぁ中途半端な感じで…

 

一応進学校だったので、

受験を意識しないわけにもいかず、

学校もあまり振り切れなかったんでしょう。

 

その中途半端さが思っていたのと違ったもんで、

行き帰りの道のりでは、

友達と留学話で盛り上がってました。

 

とはいえ、

「留学って言ったってそんな簡単にできるもんじゃない」

と思っていたのですが、

一緒に話していたその友達が

一足先に決めちゃったのです、留学を!

 

「えっ、マジ?そりゃないよー!」

て焦り、その後私も、

留学計画をゴリゴリ進め始めました。

今思えば、

彼女の行動力に背中押されたんだと思います。

彼女はやると決めたらやるタイプ。

彼女はそのあともアメリカの大学に行き、

カナダ人のご主人と

今ではカナダのイエローナイフという

オーロラが見えることで有名な町に住んでます。

 

私は一見ゴリゴリ行くように見えて、

本質ビビリなんで、

なかなか進められないんですよね。

今振り返ってみても、

留学は私の人生の原点を

作り上げてくれたと思っているので、

彼女にはとても感謝しています。

 

 

留学をゴリゴリ進めていた

高校時代の話に戻りますと、

国際高校のくせして

留学を反対した先生(これは腹立った!)にも、

「帰ってきてちゃんと受験しますから」

と勝手な口約束をして、

最後は了承いただき、

カナダに飛び立ちました。

 

そして、カナダのド田舎もド田舎、

人口千人の漁村にひとつしかない高校に留学しました。

 

漁村でも、皆が踊るカナダの町

何もない漁村でしたが、それはそれで楽しかったなぁ。

まず、皆が私を知っている。

そりゃ千人しかいない町にアジア人1人ですからね。

皆覚えてくれますよね(笑)

ある種、訛りあるヒーローみたいな(笑)

 

とにかく楽しかったのは、

高校の体育館で毎月やっていたダンスナイト。

踊るってのが日常的なんですよね、

こちらの国の人たちは。

 

バーでもクラブでもない、

お酒も出ないんですが、

ただただ体育館にディスコボールつけて

音楽流すってだけなんだけど、

皆踊りまくるわけですよ。

そして、バラード流れ始めたら、

皆カップルで踊り出す、

これがまた私の中では

「オォー!!」って感じでした。

 

恋愛初心者の私には

いっぱいいっぱいすぎるんですが、

皆積極的だから、

気に入った子に声かけて

「踊ろう」

っていうんですよ。

それに憧れてねー…

 

私も高校卒業間近にはようやく

自分でも気に入った子を誘って

踊れるようになりました!

いやーもっと早くできていれば

もっと楽しめたのに・・・

 

ちなみに、

カナダで学んだ

私が一番良かったと思うことは、

人と違うのは個性

として捉えてくれるってこと。

 

多少太っていようが、

髪が赤毛でも、

そばかすたくさんあっても、

人と違うのは当たり前で、

それで自信をなくす必要はない、

個性なんだから、

と受け止められるようになったこと。

 

当時日本では、

キティラーと

コギャルと

ポケベルと

ルーズソックスが

流行っていた時代。

 

誰に言われたわけでもないけれど、

少しでも流行っているものに

乗っかっていかなければ、

おいていかれる

という焦りもあったりして、

勝手に窮屈さを感じていたけど、

カナダでは、

あなたが何を着ているかとか、

どんな髪型だとか、

何を持っているとか、

細かいこだわりを持っている人はあまりいなくて、

ちょっとした変わり者も

その人の個性として受け止め、

フェアに接しているように感じました。

カナダだからというよりは、

田舎だったからかもしれないけど。

 

そこから何が変わったかというと、

トイレの音姫を

使わなくても気にならなくなったかな(笑)

 

それぐらい、

いろんなものが気にならなくなりました。

 

そんなに片意地はって

周りにどう思われるかのために

頑張る必要はない。

 

ありのままの

自分を受け入れてくれる場所もある、

と思えたのです。

 

カナダの高校では、

サッカーでもバスケでもとにかく、

皆が参加するクラブには全部参加し、

1学年20人程度しかいないから、

他の学年の子たちの名前も覚えて、

仲良くなろうと頑張りました。

 

このときほど、

自分の運動神経の良さに

感謝したことはありません。

 

田舎の学校なんで、

人数が少ない分、

やったことのないサッカーでさえ、

ちょこっと出させてもらえて、

ゴールまで決め、

「日本人が決めた!」

と盛り上がりましたよー。

 

スラムダンク世代の私は

バスケはそもそもやっていたので、

とにかくめちゃくちゃ楽しかったです。

 

練習試合や大会に参加するため、

放課後や土日に、

スクールバスに乗って

皆と州全土巡ったことで

友達ともますます仲良くなれたし、

私の英語力も間違いなく上がりました。

 

この時には、

もう私の心は固まっていました。

「よし、大学もカナダに行こう!」

「同じもの学ぶなら

英語の方が一石二鳥じゃん!」

と。

 

とりあえず、

日本の高校は卒業して

卒業資格を得なければ

大学にも行けないし、

と一旦日本に帰ったものの、

先生には、

「日本の大学行くのやめます。カナダの大学いくことにします。」

と宣言し、

皆が受験勉強に勤しむあいだ、

私はバイトに明け暮れました。

バイトしながら、

TOEFLを受け、

なんとか無事カナダの大学に入学しました。

 

ジムとクラブの大学生活

あまり大きな声では言えないですが、

最初の2年は、結構遊んでいました。

 

仕送りしてくれていた両親には言えません、

正直な話は・・・

遠い地で頑張って

勉強してるんだろうと思っていたに違いない・・・

 

海外の大学てのは、

入るのは簡単だけど卒業は難しいから

みんなすごい勉強する、

とよく言うじゃないですか。

でもどうでしょう?

 

授業は毎日出ていたし、

課題をやるために図書館やスクールラウンジには

毎日通っていました。

予習は、正直そんなにしてなかったかも・・・

教科書超分厚いんです。

正直、読んでも眠くなっていました。

でもテスト勉強やグループ発表は

一応頑張ってやっていました。

 

いやいやそれより、

最初の2年は、

ほぼ毎日ジムに行き、

ほぼ毎日バーやクラブに

通っていました。

行かなければおいていかれる!

てなぐらいの強迫観念で(笑)

一体何においていかれるのだろうか?

 

曜日ごとに

どこのバーが盛り上がるかってのが

大体決まっていたので、

月曜日はここ、

火曜日はあそこ、

という感じで

それこそ授業のように、

決まったバーに曜日ごとに、

寮の友達と通っていました。

水曜日はウイングナイトと

銘打っているバーで

むっちゃチキンを食べました。

えぇ、毎週水曜日に。

 

バーやクラブで何をするかというと「踊る」。

そして出会いを求めて「踊る」です。

真冬のカナダはマイナスの気温ですが、

それでも、露出高い服着て

街に繰り出すわけです、震えながら。

 

寮の同じフロアの子達とは

ほんとにたくさん遊びました。

夕飯は大抵大学内のカフェテリアですが、

皆で外食した時はとにかくめっちゃ食べます。

お腹いっぱい食べた後、

フロアリーダーのメラニーの言った一言が

今でも忘れられません。

 

「食べ過ぎたからワークアウトしなきゃなぁ。

ちょっとエッチしてくるわー」

 

このオープンさも、

それから運動とみなすくらいのセックスなの!?

ってところも合わせて名言だったので

忘れられないです。

 

 大学の前半はだいぶ楽しみに

比重を置いてしまいましたが、

後半の2年間はだいぶ落ち着きまして、

専攻も決まり、

もうちょっと真面目に勉強しました。

 

数少ない日本人で構成されている

日本人会というのが大学にあり、

そこの会長をやったりと、

日本人の友達もたくさんできました。

 

あんだけ狩猟民族のように、

クラブ通いしていたわけだから、

何人かとおつきあいもいたしました。

カナダ人はもちろん、

他の国の留学生などともおつきあいしましたが、

最終的には日本人と付き合って

カナダの大学生活を終わりました。

 

私自身でも、

「なぜ、日本人?」

と正直不思議でした。

そこらへんの男子より力強い私を

好きになってくれる日本男児はあまりいないだろう

とも思っていたもので…

ちなみにこの最後に付き合った日本人が、

今の旦那サマです。

 

彼は、日本の大学を休学して、

カナダに1年来ていたのです。

見た目的には、

「なぜこちらに?

日本でも十分楽しんでいるのでは?」

って感じのチャラチャラした

イマドキ日本人男子みたいな

格好と雰囲気だったので、

勝手ながら多分私とは気が合わないだろうなぁと

思って少し敬遠していました。

しかし、ここは日本人の少ない町、

どうしたってどこかで交わるのです。

しかも、話したらそんなに

チャラチャラしているわけでもなく、

結構真面目に勉強もしてる感じだし

(自分を棚に上げておいてなんですが(笑)

しかも、私より、運動神経が良くて、

力持ちだった、てのがポイントです。

 

この時はすでに、

マッチョな人が好みになっていましたから、

これを満たす日本人もなかなかいなかったけども、

彼は野球をやっていてガタイは

カナダ人ほどではなかったけれど

なかなか負けてませんでした。

 

今思えば、私は、

体育会系男子が好きだっただけかもしれません。

そういった人たちに

日本では出会う機会が

そもそも少なかっただけかもしれません(笑)

 

彼とは、ここから結婚に至るまでの

長い付き合いなんですが、

ただし、私のこのブログのタイトル

「フリーランスに転向して旦那を屈服させる下克上夢物語」

からもお察しいただけるでしょうが、

結婚すると、

「もうちょっと柔軟性持って

家のこと協力してくれてもいいんじゃないの?」

と言いたくなる典型的日本男児であったことが、

あとから判明し、ブログを始めた当初、

ちょっと困っていました(笑)

そこからまた私もそして彼も成長し、

今はだいぶ良いバランスで家族も周りはじめてます。

(このブログのお陰でもあります)

 

カナダでは、それなりの英語力と、

未来の旦那を見つけ、

そして日本に帰って来ました。

 

黒いリクルートスーツに違和感を覚えた就職活動、そして安易な初就職

卒業して帰国し、

就職活動をスタートさせましたが、

正直、何がやりたいか、

具体的なイメージは全く持っていなかったです。

ホント無計画&無謀な就活でした。

 

何がやりたいかと聞かれてもよくわからず、

「とりあえず英語使えて、

海外出張があって、

そんで自分の専攻の知識が

少し生かされれば

(金融とマーケティングでした)

いいかなー」

 

「私の強みはやる気と根性です!」

という感じで、今だったら絶対取りたくないアホな学生でした。

 

 そして、リクルートスーツに嫌悪感を持っていました。

「就活って、なぜ、皆真っ黒のスーツなんでしょうか?」

今でも不思議です。

学校の制服だって

多少バラエティに富んでるのに、

リクルートスーツは皆ほぼ同じ。

「なんか気持ち悪い…」

と感じて、

グレーのスーツを着て就活に臨みました。

これもバカな抵抗ですね(笑)

でも、当時の私には精一杯の反抗でした。

 

5月にカナダの大学を卒業して、

そのまま日本に戻り、

事前に予習もしないまま

漠然と就活を始めた私ですから、

色々と時すでに遅しって感じで、

すぐに就職できる新卒枠ってのは

あまりなかった中で、

時期はかえりみず、

当時、とにかく営業の大量採用を試みていて、

ブラック企業と噂されていた会社の面接に引っかかり、

その会社がブラック企業と

噂されていたことさえ知らない無知な私は、

採用担当の方に、

「グループの投資会社(ベンチャーキャピタル)で、

海外投資先の担当がいなくなりそうなので、

君やらない?」

と声をかけられ、

安易に「はい、やります!」と手を挙げて、

無事就職することができました。

 

そもそも新卒にやらせるような

仕事じゃないはずなのに、

なぜ新卒にまわって来たかというと、

投資会社と言っても、

ITバブルが弾けて、

大損こいていた時代で、

投資を担当した花形の営業マンたちは

バンバン辞めていったため、

地味な投資先の担当の仕事や、

投資先の社長との株の買戻し交渉なんて嫌な仕事を

誰もしたいと思っていなかったわけです。

それを、無知な新卒が

「英語も使えて、海外出張もできて、

大学の勉強も役に立ちそう」

という安易な考えで、

ホイホイ手を挙げたもんで

「これはラッキー」

とひょいっと釣られてしまったわけです。

 

しかしお陰で

普段新卒ではやらせてもらえないような仕事も

たくさんさせてもらいました。

 

通常は、投資先企業に財務状況含め

進捗を聞いたりレポートをもらったりして、

日本語に訳して、

社内に報告するという

地味な作業でしたが、

億単位、

もしくは

英語でmillionとか

桁が多すぎて、

よく桁を間違えては怒られていました。

 

ただ、通常以外の業務がよく勃発し、

経営者に喧嘩をふっかけて、

「うちの株を買い取ってくれー!」

とメールや電話、

時には上司と共に訪問して抗議したり、

投資先が無謀な増資計画を

提案して来た時には、

弁護士と契約書の確認をして、

止めるために抗議をして、

「ならばうちの株も買い取ってくれー!」

と言い寄ったり、

不正を働いた経営者を相手取って、

他の株主と提訴したり…

 

こうやって聞くとヤクザですね…

新卒が普通こういうのやります?

お陰でだいぶ肝は座りました。

 

また、アメリカ、イギリス、シンガポール、中国、香港と

様々な国に行くこともできましたので、

ある意味私のイメージしていた

社会人生活は送れていたわけです。

浅はかだが(笑)

 

しかし、こんなことばかりしていては

人間やさぐれていくものです。

楽しくないんでよね、

後ろ向きな交渉ばかりだと・・・

唯一、健やかな気持ちで訪問できた投資先は、

業績も順調で、

もうまもなく株式公開するという

日本の企業1社ぐらいでした。

 

その会社の社長とも

うちの会社は最初は揉めていたので、

担当になってからは、

社長に意地悪をよく言われていました。

 

会社を初めて訪問した時、

その会社はエレベーターを降りたら、

ドアも何もなく

すぐにオフィス!

という珍しい作りだったことを知らず、

コートを脱ぐ場所さえなかったので、

エレベーターを降りてすぐ脱いだんですが、

社長に見つかり

「お前社会人としてどうなんだ?

先にコートを脱ぐことも知らないのか?」

と言われた最初の新任の挨拶、

今でも忘れません(笑)

 

その会社の社長から、

「株主もうやめてください」

とうちの会社が言われ、

株式公開前にとても安い株価で

買い取られそうになった際には、

社長に脅迫文のような

内容証明を送ったりと、

会社対会社の

結構ガチな大人の喧嘩を

させられました。

 

しかし、最後には和解し、

お互い納得のいく形で

会社も株式公開する、

と話がまとまってからは、

この会社で仕事をしてきた中で

私としては最も穏やかな

取引先訪問をすることができ、

社長とも一気に仲良くなりました。

 

同時に、

「精神衛生上この仕事は

なかなかしんどいし、

前向きな仕事、

すなわち投資という業務を行える程、

どの会社が

将来素晴らしい可能性を持っているのか、

なんて、

後ろ向きな仕事ばかりをしていた

新卒上がりの私には一切わからない…」

とこの先の自分に不安になっていました。

 

「さぁどうしよう」

と思っていた矢先、

この仲良くなった社長から

「君もうちにおいでよ。

今くれば、最年少だよ。」

というよくわからない誘い文句に

ホイホイ乗ってしまい、

転職することにしました。

 

とにかく楽しい営業

転職後は、

「営業企画」という名で、

正直なんでもやっていました。

当時は、

20数名あまりの小さな会社だったので、

何でもやれる人がやるというベンチャー気質。

これがとにかく楽しかったです。

 

「サービスを作ってそれを売る」

こんなに明快でわかりやすいビジネスってあるんだ!

しかも、ちゃんと売上が上がっている!

 

正直たいていの会社はそうなんでしょうが、

最初の会社があの会社だっただけに、

そんなシンプルさに感動し、

やってる自分も自信を持ってお勧めできる、

ということに感動しました。

 

辛かったことと言えば、

メルマガを夜中一晩中書いて、

5時に家を出て出張に行っていたことです。

そして夜は取引先と飲み続け

まさに体力勝負のザ、営業職!

若さだけで乗り越えました。

 

子育てママの壁と、実力主義?に生まれ変わる会社

バカみたいに営業していた時代に、

あのカナダの大学時代に

付き合い始めた彼と

6年越しに結婚いたしました。

 

若い会社なので、

結婚して子供を産んで

戻ってきた人の前例はゼロで、

子供を持って仕事をするっていうのは

具体的にどんなものなのかイメージわかないまま、

「子供は4人は欲しい」

と会社でも豪語していました。

 

そんな中で、

私はやはり初めての

会社の産休・育休メンバーでしたが、

1人目を産んで会社に戻ったとき、

戸惑いました。

 

取引先をいかに多く周り、

遅くまで仕事し、

接待に参加し、

という営業が

出来なくなってしまった私は、

「一体何をしたらいいんだろうか?」

私自身も、

そして会社側も

初めてだっただけに戸惑い、

外に出ずできる仕事を

色々トライしましたが、

やっぱり悶々とした日々が続きました。

 

だって、ベンチャーとはいえど、

社長はたくさん働いた人を評価し、

目に見えるパフォーマンスを

評価するようなゴテゴテ体育会系なのに、

時間で解決できない私がいくら頑張っても、

子育て前の私を超えられない・・・

 

うーん・・・と悶々としてしまった上に、

復帰わずか1年で、再度産休に入ってしまいました(苦笑)

会社にも迷惑な社員だったでしょうね。

復帰後1年でまた産休とは・・・

 

そして、2人目を産んで戻ってきたときには、

会社自体が変わっていました。

 

力任せでなんとか成長を遂げていた会社の成長が鈍化する時期がやってきていました。

 

ただただやらなきゃいけないこと、やれることだけをやっても伸びていた時代から、

何をやらなきゃいけないか、分析・策定し、やることも取捨選択する時代が

この会社にやってきたのです。

そこで登場したのが、コンサルタントです。

このコンサルタントの人は、外部からいろいろ示唆し進めて行くうちに、やはり人たらしの社長の誘いもあり、会社の人となり、そして私の二度目の産休明けの上司となりました。

 

この上司のおかげで、

会社の鈍化した成長もまた勢いを取り戻し、

会社もさらに成長に向け、規模も大きくなり、

仕事も細分化されて行くのですが、

もはや会社で求められているのは、

脳みそが筋肉な人ではなく、専門性ある職人、もしくは、

頭の良いマネージメント能力のある人と様変わりしていくわけです。

 

そこに私ってついていけるの?

難しい・・・なんせ、一つ目の会社は、

私の判断というよりは、会社で決めたことを

特攻隊のように手とあり足となりやってきただけ、

そしてこの会社での前半は、とにかく

やることが明確で、脳みそ筋肉の人でも

できる仕事をみんなでこなしてきただけだから。

分析とかロジカルに考える、とか怠って

きたこと間違いなしだ・・・

 

いや遅いはずはない、これから学べばいいんだ!

と、とにかくこの上司に食らいついて頑張りました。

 

新規事業の立ち上げ、新チームの発足、

新規投資案件、とにかく上司のやりたいことを手となり、

足となり、やりました。

 

あれっ、自分の頭で考える人が求められていると聞いていたが

 

そう、 結局、結論は求められているようで求められていなかったのです。

 

 「ブレインは僕だから、君らはそのまま動いていて」

 

もしくは、

 

「そこまで頭働かないんだから、やっぱり言われた通りに動いて」

 

結局、誰よりも脳みそ筋肉の人を求められていたというわけです。

 

どちらも脳みそ筋肉は変わらないのに、

なんでもやっていた時代と何が違うのか?

それは脳みそ筋肉と気づかないままやり続けていた時代と、

脳みそ筋肉だと、諭されて、惨めな気持ちで仕事をする、

これが違うんですね。

 

一方で、手となり足となり動ければ、お母さんでも気にしない

というのはこの上司の良いところで、急な呼び出しで早退したり、

時短で仕事をしていても、求められたものにきちんと対応していれば、

それなりに評価してもらえる、という点ではありがたかったです。

 

が、脳みそが筋肉と言われようとも、

少しは自分で考えて自分で決めて動きたい、

という思いもあり、

そろそろお暇させてもらおうと思った頃、

ちょうど、長男が小学校に入学しました。

 

幸い、時短になってから、滅多に飲みにもいかなくなったし、

タクシーも使わなくなったし、お金を使う機会も少なくなり、

貯金も貯まっていたので、これを当面食いつぶすつもりで、先は考えずに失礼しよう!

 

と、完全に勢いでしたが、後先考えずに退職し、今に至ります。

 

後悔はしたかしないか、まだ結論付けたくありません。

全てが私の自由の時間!

このスタイルを出来るだけ維持しながら、

できれば会社に勤めていた頃と同じだけの給与を稼ぐ!

これを目標にしていきたいと思います。

 

ブログを始めた経緯について

会社を辞めて、さぁ次は何しよう、と考えたとき、まずは好きなことだけしてみようかな、と思いました。

大人ともなれば嫌なこともしてきたし、仕事自体たいして面白くなくても続けてきたわけですから、

真反対のこと、とくに生産性がなくてもやりたいことをやってみよう、と思いました。

 

最初はとにかくダラダラしました笑

ダラダラってなかなかできないもんです、働くお母さんというものは。

だいぶダラダラしてから、罪悪感を感じ、なにかしようと焦り始めます。

しかし、会社という鳥かごの中でぬくぬくと育った私には何をして良いかわからないのです。

 

履歴書も書いてみたけども、最初の就活以降、真面目に書いてこなかったわけで、

38歳にして、とんでもないヘタクソな履歴書、職務経歴書が出来上がりました。

そして、同じ会社に12年もいた私は履歴書美人でもないし(と、前の上司に言われたことを思い出しました)、

ましてやこれまでしてきたことをアテにされて転職しても、これまでと同じ生活に戻るだけじゃないのかな?

 

どこかの会社に勤めるってのは、果たして私のやりたいことなのだろうか?

 

まさに今の生活のように、時間を自由に使いながら、平日に髪切りに行ったり病院行ったりできて、

時には仕事、時には小学校の行事、時には趣味を、というふうにバランス良く生活する方法てないものかねー?

いや、あるはず!

 

と思い至り、いろんな仕事を自分のペースで出来るカタチを

みつけることにしようと決心しました。

 

そして、もつひとつの課題は家族のカタチ、特に旦那サマです。

 

うちの旦那、外では評判いいんです。

子供の保育園の登園はかならずいってくれるし、休みの公園では他の子供、

特に小学生たちからも大人気で、うちの息子が学校で、年上のお兄さんお姉さんたちから

「今度の土曜公園行くから、パパに言っておいて」

と伝言預かるくらいです笑

 

しかーし!!子供3人もいる家庭で、おしめを替えたことがないってどう思います?

私が会社勤めしていた当時も、子供の迎えは私でしたので、私の方が早く帰宅していました。だからって、家事は私が全てやるもんなんでしょうか?

ましてや朝は2人とも同じように家で時間を過ごしてるわけですから、同じだけ家のことできますよね!それでもやらずに、一人テレビの前でぼーっとするわけです・・

 

息子が生まれてから何度もイライラしては、いろいろ対策も講じてきました。

優しくお願いする、出来たら褒める、ロジカルに説明する、などなど。

その度に少しずつしてくれるようにはなり、洗濯物干し、

お皿を食洗機に入れる、お風呂を洗ってセットしてくれる、朝ごはんを作る、

までやってくれるようになりました。

 

しかし、しかーし!

私が退職してからというもの家での動きが鈍くなりまして、お願いしないと動いてくれなくなりました。

 

「あなた、指示待ちの社員がいいと思います?

自ら動く社員の方がいいと思うでしょ?」

コレ、最近ママになった友人が旦那に言いたい一言だそうです。

あまりに名言なものでお借りしました。

会社で、どんなに優秀か知りませんが、家じゃ・・・

 

この流れ、行く末が不安だと思いませんか?

 

私は家事をさらに頑張るために会社を辞めたんじゃないーー!!

 

と爆発したいのです。

 

てか一度しました。この話はまた今度。

 

我が家はまだ良いほうで、いろんな友人の旦那サンの話を耳にします。

 

最近一番の怒り沸騰バナシは、夜の赤ちゃんの泣き声がうるさくて旦那が実家に帰ったという話。

この話を聞いた時、あまりにひどすぎて言葉も出なかったです。

ここの夫婦は共働きで奥さんもバリバリ仕事しているけど、子育てはおろか家事も手伝ってはくれない、

どころか!実家に帰るという信じられない話です。

 

それから私の弟は、お嫁さんが朝ごはんを作ってくれない、とグチり「専業主婦なんだから家事ぐらいちゃんとやってほしいよな。」の一言。

いや、わかるよキミの気持ちもでも、何だその失礼な発言は!!

 

「じゃお前が主婦やれー!朝ごはんぐらいテメエで作ってたべろよー!」とつい怒鳴ってしまいました。

そしたらなんと言ったと思います、この人!?

「オレ主婦やってもいいよー。奥さんが仕事して同じだけ稼いでこれるなら」ですって!!

ムキー!!腹立つー!!大した稼ぎでもないくせに!(実際にいくら稼いでるかは知りませんが)

奥さんが同じだけ稼げるとも思ってないくせに!

そしてオマエが家事できるわけなかー!!

つい、どこかの方言になってしまいました(笑)

 

完全に、家事を、そして専業主婦をバカにした発言!!

 

家事やりながらあんた以上に稼いでるよーて言ってやりたい!

私じゃないけどそのお嫁さんに言わせてあげたい。

 

「俺より稼げないくせに」発言の真意が恐ろしすぎる

 

うちの旦那はそんなこと言いませんよ、絶対。

それでも、どこかで家のことは妻がやるもんだってのが根底にあって、

だから手伝うってスタンスでしかやってくれないんですよね。

 

こんな話はどこにでも溢れてる話でしょうし、

逆に旦那さんの方が家事やってる話ももちろん聞きます。

少ないですけど。

 

間違いなく、非協力的な旦那さんの方が多いし、それが当たり前だと思っている、それが悔しい!

 

なんとか限られた時間で少しでも収入を稼ぐことはできないかなぁ。

ましてや、自由にいろいろな場所でできる仕事だったらなおのこと有難い。

 

収入が旦那よりあるからって解決できる話でもないのも分かっています!

むしろその事実は旦那のプライドを傷つけ関係性さえ危うくさせる要素にもなりうるかもしれません。

でもでも、自分がどれだけ稼いでいるかなんて旦那に言う必要はないんです!

ただ、心に余裕を持って旦那と接するためにも自信をつける必要があると思います。

 

「私稼いでこれないから、何もいえない」という奥サマも多いはず!

 

私と同じ想いを抱えている人とともに頑張っていきたい、というこの想いがふつふつと湧いてきています。これが、ブログを始めようと思ったきっかけです。

 

しかし、私も、このブログを始めようと思い至りかれこれ2週間かかって、やっとこのプロフィールを書き終えられたダメダメな主婦でして・・・

しかもつい現実逃避したくなっちゃって、漫画を貪り読み始める、というほぼ毎日反省の日々。

 

だから、自分への戒めも込めて、自分のトライしたこと、失敗も成功も書き綴っていきたいです。

そして、これが少しでも同じ想いを持っている人の背中を押せたらそんな嬉しいことはありません。

 

さぁ色々やってみよう!でも不安・・・できるかな?